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こんにちは僕ぽち丸。
まあ、ややこしい宗教の話はしませんけれどもね。
神様と言うものを考えてみた時、皆さんはどんな存在を想像しますでしょうか。
僕は特に特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、何となくのイメージで考えてみると、空の更に上に居て雲に乗っかってぷかぷか浮いてるひげの爺ちゃんみたいな感じです。
人によっては、やたらふわっふわした服着て羽の生えた女神様を想像したり、ヤマト神帝みたいな髪型して勾玉とか銅鐸振り回してるようなイメージの方も居ると思います。
と言うか、そもそも論。
神様って、居るの?って話。
「信仰が神を造る」とか言う概念的な話で言えば、世界中に数多くの神を崇める宗教があるわけですから、間違いなく居るでしょう。
だがしかし、実際に質量を持った存在としての神様は居るのかどうか。
観察用の虫かごに入れられたアリが観察者である人間を認識できてるとはとても思えませんから、実際にその存在を確認するのは困難を極めるでしょう。
少なくとも僕が生きてるうちにその存在を確認するのは不可能でしょうし、人類が滅亡するまで永遠に未確認かもしれません。
だから結局のところ僕達は神様を概念的に捉えるしか無いわけで。
概念的には、信仰を深めれば深めるほど神様と言うあやふやな概念に色々なペルソナが付与されて、人の生死から今日の天気までありとあらゆる事象を左右するようになるわけです。
それって詰まるところ、「居ると思えば居るし、居ないと思えば居ない」とか言う物凄いふわっとした結論に行き着いちゃうわけですけどもね。
僕はさっき特定の宗教を信仰していないと書きましたけども、別に無神論者と言うわけではなく、神様は居ると思っています。
ただ、お供えして、お布施をして、お祈りをして、そう言う風に信仰を重ねたからと言って神様が人間に対して何らかの働きかけをしてくれるとは思えないんですよ。
神は、ただ超然とそこにおわすだけ。
人間の手前勝手な都合に合わせてくれたり、賽銭箱に5円玉投げ込んだからと言ってお願いを聞いてくれたりするわけではないと思うんです。
だから僕は生まれてこの方、初詣には彼女が居る時期にデートの一環としてしか行った事がありません。
もちろん、宗教信仰なんて意味無いと言ってるわけではなく、死後や来世での安寧を餌に、神に尽くし他人に尽くす品行方正な生き方をすると言うのはとても素晴らしい事だと思います。
「信仰が神を造る」と言う言葉に則れば、彼らの神はその信仰に報いて素晴らしい人生を与えてくれるのでしょう。
さてさて、国内外から日本は無宗教国家である、もしくは信仰倫理が皆無であると言うような話を良く聞きます。
確かに、初詣したり、聖書に永遠の愛を誓ってみたり、死んだらお経を唱えてみたりと一体何を信仰してるのか分からない有様だったりしますけども、これって別に無宗教だったり信仰倫理が無いわけじゃないと思うんです。
日本には自然信仰から発生した八百万思想と言うものがありまして、まあ要するに、山にも川にも海にもでっかい岩にも太い樹にも、ありとあらゆるものに神様が宿ってると言う考え方です。
トイレにはそれはそれは綺麗な女神様がいるんやでぇ。
つまり、土を捏ねて器を造って縄をこすり付けて「お、この模様きれいじゃね!?」つってウホウホ喜んでた時代から、神様も信仰もたくさんあったわけですよ。
そこにシルクロードを伝って仏教が入ってきたら「ああ、唐にはこんな神様(仏様だけど)が居んのね」つって受け入れた。
その後カッパみたいな奴がキリスト教持ってきたら「ああ、南蛮にはこんな神様が居んのね」つって受け入れたわけです。
つまり、日本は無宗教なわけでなく、「いっぱい神様居るんだから、神様の捉え方も信仰のやり方もそれぞれで良いんじゃね?」みたいな、言うなれば「日本教」みたいなゆるーい宗教の教徒なんじゃないかなぁ、と思うわけですよ。
そう言う思想と言うか、宗教観みたいなものって、日本で独自発生した宗教である神道が神社ごとに違う神様を祀ってるようなところにも端的に現れてると思うんですけどね。
ちなみに、宗教豆知識。
ユダヤ教、キリスト教、それとイスラム教は一神教なんですけども、実はこの三教が信仰してるのは同じ神様なんですよ。
それぞれ万能の唯一絶対神を信仰しているので、論理的解釈で「同じ神様という事」になるのかなと思いきや、マジで同じ神様なんです。
めっちゃめちゃ端折って書きますけど、ユダヤ人たちは「ヤハウェ」と言う神様を信仰していました。
そこに、キリストと言う預言者が現れました。(ちなみに、当時神の言葉を預かった『預言者』と自称する有象無象はたくさん居ました)
キリストは巧みな手練手管で瞬く間にシンパを集め、ユダヤ教のお偉いさんから「アイツ図に乗ってんじゃね?」と破門されてぶっ殺されました。
ちょうど、日蓮正宗から見た…え、名前は出さない方が良いって?そうかそうか。
まあとりあえず、キリストの死後に残ったキリストの使徒達は、右の頬を殴られたら左の頬も差し出して隣人同士で愛し合うドMのフリーセックス集団「キリスト教」を立ち上げました。
その後、「最後の預言者」を自称するムハンマドと言うオッサンが「お前ら偶像崇拝してんじゃねえ!」とイスラム教を立ち上げました。
と言うわけで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「ヤハウェ」と言う唯一神を異なる教義で信仰している宗教と言うわけなのです。
その後、イスラム教徒は「アッラーの他に神は無し!ムスリム世界を拡大してアッラーの教えを広めるぞ!」とか何とか言いながら聖戦(ジハード)と言う名の侵略戦争を仕掛けて聖地エルサレムを制圧しました。
それに対してキリスト教は「いいですか?暴力を振るって良い相手は、悪魔共( バケモノドモ)と異教徒共だけです。アーメン、ハレルヤ、ピーナツバター」とか何とか言いながら十字軍をけしかけました。
キリスト教において殺生はもちろん戒律ですが、この時、教会が全ての罪が赦されると言う「免罪符」なるものを発行しまして、「全ての罪が消えるんなら何してもOKじゃね!?」つって、行きがけの駄賃についでにユダヤ教徒もぶっ殺して財産を略奪したりやりたい放題やりました。
こうして国持たぬ民であるユダヤ人はエルサレムに入植しようとしたり、何だりかんだりらじばんだりしまして、自動車に爆弾積んで突撃したりと現代に至るまでパレスチナあたりでドンパチやってるわけですが、それはまた別の話。
さてさて、また話が脱線しちゃってどうしようもなくなってるんですけど、何で僕が突然神様の話をしだしたかっつーとね。
昨日、台風が過ぎて久々に天気が良かったので、久々のチャリンコ通勤を堪能してたわけですよ。
辺りもすっかり暗くなった帰り道、気持ちよくかっ飛ばしてると、見渡しの悪い交差点から車が突然出てきたんですよね。
慌ててブレーキかけまして、ギリギリで事無きを得たんですけれど、制動距離がもうあと2㎝遠かったら自転車も僕もただじゃすまなかったと思います。それぐらいギリギリchop!
思わず神様に感謝したわけです。
んで、今朝。
これまた気持ちよく自転車で走ってましたら、前方を後姿美人なお姉ちゃんが自転車で走ってるわけですよ。
スタイル超良くて、髪の毛サラッサラで、服装もめっちゃ好み。
しかも朝シャンしたのか、ほんのりいい匂いが風に乗って漂ってくるではありませんか。
こりゃもう、前に回って顔拝むっきゃねえ!みたいな状況、男だったら一度や二度は遭遇するはずです。
ぽち丸のチャリンコは何度か書いてる通りロードサイクルで、お姉ちゃんは普通のママチャリ。
マジ漕ぎすれば一瞬で追い抜くことは出来ますけど、変にスピード出して追い抜いちゃうと、何気にチラっと後ろ向くのがわざとらしいじゃないですか。
そんなわけで、ジワジワとスピード上げて、追い抜いて、それから進路を変える時にタイヤの接触を気にしてるフリをしながらチラっと振り返る作戦を立案したわけです。
ジワジワとスピードを上げて、あと2m、あと1m、あと30㎝…今だッ!チラッ!!!
振り返った僕の視界の端に、曲がり角に消えていくお姉ちゃんのやや斜め後ろからの顔が見えました。
もう後2cm、もうあと2cmだけお姉ちゃんが後ろに居れば、ちゃんと顔が見れたのに…!
僕は思わず神様を呪いました。
2cm、定規で見ると人差し指の第1間接分くらいの長さしかありませんが、宇宙ではわずか2cmのデブリが宇宙服を貫いて命を落とす事もあるわけです。
昨日の夜、僕の命を踏みとどまらせた2cm。
今日の朝、僕がどうしても届かなかった2cm。
もしかしたら、この2cmには神様がいて、僕達人間では踏み込めない領域なのかもしれませんね。